人が育つ・心が通う場所 ―中村中学校・高等学校② その教育..

みてみて!うちの部活!

2018/03/23

中村中学校・高等学校

2018年1月5日、新しい年が動き始めたこの日。清澄庭園が目の前に広がる「中村中学校・高等学校」にお伺いした。この日は、生徒たちが「深川七福神巡り」の人々を空中図書館コリドールでおもてなしするという「ちょっと寄り道」が開催されていた。
①では当日のおもてなしの様子をお伝えした。そこには、100年余りの歴史に流れ通う、明るくのびのびとした自由な校風の発露があった。
②では、地域に福をおすそ分けするこのイベントにお誘いくださった前校長 梅沢辰也先生から、中村中学校・高等学校の明朗な気風が育まれていく秘訣や、長く学校と共に走ってこられた日々についてのお話をお聞きした。

(「ちょっと寄り道」の生徒のおもてなしの様子については、
永井哲明校長先生のお話中心に
「中村中学校・高等学校1 『ちょっと寄り道・おもてなしの心』」にて紹介している)。

108年受け継がれる 清く、直(なお)く、明るく。

女子教育の充実、人材の育成

中村中学校・高等学校の歴史は、1903年(明治36年)私立深川女子技芸学園創立に遡る。現在の前身となった「中村高等女学校」の開校は1909年(明治42年)、その時、学校が目指したものは、当時まだ十分ではなかった女子教育の充実を図るということのみにあらず、「機に応じた活動ができる人材の育成」であったという。5代目小林珍雄校長が掲げられた校訓「3つのS」は、1.わがままをおさえる(Self- control)2.ひとに迷惑をかけない(Self-government)3.ひとに親切をつくす(Social-service)中村のスピリッツとして、今も受け継がれている。

参照:中村中学校・高等学校HP より 「歴史・沿革」

中村学園は、明治36(1903)年、渋澤栄一と並ぶ明治屈指の実業家中村清蔵により、私立深川女子技芸学校として創立された

創立者 中村清蔵先生の像

平成11年9月、創立90周年 新校舎落成を記念した像と碑文

今回 訪問したのは最上階7階の空中図書館(コリドール)である。 校歌は与謝野晶子の作詞だ

梅沢前校長から「1月5日に『深川七福神巡り』の休憩場所として、学校の見晴らしのいいところで地域の方々のおもてなしをするのですが良かったら来ませんか」とお声がけいただいた。
姉妹、親子、三代で入学するほどの中高一貫の女子教育の人気校だ。バレーボールの黄金時代を築いた保健体育がご専門の梅沢先生に、組織を栄えさせるポイントをお聞きすることができた。

1.梅沢辰也前校長の挑戦

人生の転機、そして学校作り

梅沢先生は、バレーボール一筋に生きてきた人だった。中村中学校・高等学校(以下「中村」)でも、担任は持たず保健・体育の教員として勤めていた。その先生が、バレーボールをやめて、担任を持ち、「中村」の広報担当としての道をすすむことになったのは36歳の時。人生の転機だったと振り返る。

歴史の長い「中村」だが、伝統校にも波はある。当時、なかなか生徒が集まらなくなっていた学校に生徒を集めるという、大きな仕事が先生を待ち受けていた。けれども、そこで先生が考えたのは、「これだけの熱心な素晴らしい先生たちがいて、生徒が集まらないはずがない。集まらないのは何かを掛け違えているだけのこと」というポジティブなものだった。
そこで、3つのことを実行した。
一つ目は、「マイナスの言葉は使わない」ということ。常に前向きに、プラス思考で進んでいくということ。
そして、3年計画などではなく、チームは1年ごと、1年で成果を出すということ。
さらにチームのメンバーは梅沢先生が決めるということ。
そして、その方針が功を奏す。見事に生徒が集まった。

また、梅沢先生は「風通しの良い環境」の大切さを考えていた。
職員間では、当然ながら先輩・後輩や管理職と一般教員の間には上司・部下の関係はある。しかし礼儀をわきまえた上で、自由に自分の思いや考えを言えること、意見交流できる環境は、とても大切なものだ。広報担当として動いている時に、校長にものを言わなければならないことがあったという。思い切って発言したところ、校長先生もそれを素直に受け入れられたという。「中村」には、こうした環境が整っているのだ。

例えば部活動、中学生・高校生・顧問、厳しくも信頼に満ちたたたずまいに、例えば教職員のポジティブで活力に満ちたご様子(学校HP参照)に、おのずとにじみ出る「中村」の校風

チャイムの鳴らない学校

梅沢先生が学校長となられたのは2010年のこと。この時、先生にはある思いがあった。それは「自立する」という事を象徴するものを、わかりやすい形で一つ作りたい。そこで考えたのが「チャイムを無くす」という事だった。学校現場では、当たり前のようにあるチャイム。それを無くす、ということは、何を意味するのか。

先生は「時間は命です」という。時間を大切にするということは、命につながるのだという。時間の使い方は、その人の人生のあり様にもつながることだ。学校生活には「チャイムが鳴る」というフレーズがある。しかし、本来は「チャイムが鳴るから」ではなく「決められた時間があるから」であり「その時間が来たから」なのだ。チャイムによって行動するのではなく、時間を考え、時間を守ることが「自立」につながると考えた。あって当たり前のものがなくなった時、人は五感を働かせ、考えて行動しようとする。そのことが、生徒たちに自らを律し、自立する心を育てることになるのだろう。

内なる力をみつけるということ-ポテンシャル入試の導入

現在「中村」では、入試制度の一つとして一般試験とは別に「ポテンシャル入試」という制度を導入している。文字通り、その子の持つ潜在的能力、ペーパーテストの採点だけでは決して見えない内に秘められた能力を見つけ出し「中村」で育てる、そのための入試制度だ。この制度が導入されるにあたって一つのエピソードがあった。

ある時、梅沢先生は一般試験で一旦不合格となり、繰り上げで合格となった生徒の家庭にその旨を伝える電話をした。電話口に出た女性の対応がとても素晴らしい、見事な受け答えだったという。話しているうちに、実はその女性こそが、今回の繰り上げ合格の生徒、若干12歳の当人だった。大変驚いたという。実は、その生徒は幼いころからずっとバレエを習っていた。おそらくはその中で鍛えられ、様々な力を養ってきたのだろうと先生はいう。その生徒は、入学後すぐにその力を発揮し、成績は中学2年から高校3年まで、常に学年トップ5。高校3年生では特待生に選ばれたという。

梅沢先生は、そこで考えた。一人の人間を評価するのに、2月のこの時期のペーパーテストだけでいいのか、その物差しだけで判断していいのか。ペーパーテストが示す数値だけで、「中村」が求める生徒を決めていいのか。その思いが、「ポテンシャル入試」へとつながった。「ポテンシャル入試」では、まず事前に「活動報告書」を提出する。これは自分自身の12年間を振り返り、なぜ自分は「これ」をしてきたのか、一生懸命になれたのかを見つめ直すものだ。そして試験当日の作文、自己アピールをする3分間のプレゼンテーション。そして7分間の面接だ。プレゼンテーションでは、どのような形を取っても良いという事で、スピーチはもちろん、合気道の形を披露する生徒や紙芝居で自分の経験や学びを伝えるなど、驚くほどのものがあるという。

そこに見えてくるものは、それまでの生活の中で、何かを着実に乗り越え、積み上げてきた子が持っている自信と強さだ。そういう子は、勉強の取り組みにおいても、友人関係においても一味違う。目の前の目標に向かう姿勢が決まっているのだ。2月の入試時点、一般入試におけるペーパーテストでは決して良いとは言えない成績であっても、ポテンシャル入試で入学してきた子は、「中村」に入ってから、その力を発揮する。

一人一人の子どもが持つ潜在的な力、限りない可能性を伸ばす教育-明るく自由な校風が持ち味の「中村」、その「中村」が求める子ども、そこで展開される「中村」の教育の姿が、この「ポテンシャル入試」に見えるような気がした。

地域に開かれた学校へ -「清澄庭園・中村学園通り」の誕生

現在の「中村」の校舎が出来上がったのは、1999年。創立90周年の時だった。作られた校舎のコンセプトは「地域に開かれた学校」だった。 2009年に100周年を迎える、その5年前。梅沢先生には、一つの目論見があった。それは学校の前の通り、丁度校舎と清澄公園との間の区道に「中村」が入った名前を付けたいというもの。当初、「それは無理だろう」というのが大方の予想だったという。けれども、梅沢先生は考えた。まず地域の人々と話そう。地域の方たちと仲良くなり、理解が深まればチャンスはあるはずと。そこから、本当の意味での「地域に開かれた学校・中村」がスタートする。そして、ついに100周年を迎える年の1月1日。すべての町会の同意を得たことが梅沢先生に伝えられた。梅沢先生の心を尽くした地域の人々とのお付き合いが実った瞬間だった。今、その通りには、「清澄庭園・中村学園通り」の表示がある。それは、単に通りの名前だけではない、「中村」と地域の人々とのつながりを表すものなのだ。

2.思い出の生徒たち

梅沢先生から、先生の心に残る生徒のうち、お二人の方のお話を伺った。

2018ミス・インターナショナル日本代表選出大会で準ミスに選ばれた「高橋かな」さん

一人は、2018ミス・インターナショナル日本代表選出大会で準ミスに選ばれた「高橋かな」さん。彼女は中村高等学校2年で学校をやめて、バレエを学ぶため単身イギリスに渡る。それは、その年齢にしては大きな決断だったという。同級生と涙ながらに分かれイギリスへ。1年生から再スタートを切ってバレエを学ぶ。昨年11月末、梅沢先生の招きで母校「中村」に凱旋を飾った。外見の美しさだけではない、内からあふれる「美」。オーラに包まれていたという。

梅沢先生にとって決して忘れることのできない生徒、バレーボールで活躍した「堀江陽子-ヨーコ・ゼッターランド」さん

もう一人は、梅沢先生にとって決して忘れることのできない生徒。バレーボールで活躍した「堀江陽子-ヨーコ・ゼッターランド」さん。堀江さんは、中学校時代に全国優勝するほどのプレーヤーだったが、当時、バレーボール部としてはシード権があるのかどうかも、というくらいに低迷していた「中村」に入った。それは、彼女の母親が負け知らず、何度も全国優勝を果たしていた頃の「中村バレーボール部」の一員で、全日本のメンバーにも選ばれたほどの選手だった。そして「中村」のOGたちはもう一度「中村バレーボール部」を全国の舞台へ、という思いを後輩に託すべく、その支援・指導に力を注いでいたことがある。堀江陽子を得た「中村」は1年で東京都ベスト4となる。丁度、その頃に梅沢先生が「中村」へ。全国3位まで進み、センターコートを踏むところまで行った。当然、堀江さんには実業団から声がかかり、全日本のメンバーへ、というところだったが、堀江さんは大学に進学をしてもその道はあると信じ早稲田大学へ進学した。ところが、当時のバレーボール界では「大学に進学したという事は真剣に考えていない」と思われるという時代。卒業後の実業団バレーボール選手への道は閉ざされ、全日本代表としてのオリンピック出場を断念せざるを得なくなった。そこで彼女が選んだのは、父親がアメリカ人という事もあり、アメリカ国籍を取得、ナショナルチームへのトライアウトに挑戦することだった。合格し、そして持ち前のコツコツと努力を重ねる姿勢が実り、ナショナルチームの12名枠に入る。バルセロナ・アトランタオリンピックに出場。そのバルセロナオリンピックでアメリカチームは日本と対戦。堀江さんにとって、日本で共に切磋琢磨していたメンバーが相手コートにいる。アメリカチームは日本にリードを許していたが、堀江さんの途中出場から一転大逆転で日本に勝ち、そのオリンピックで銅メダルを獲得することになる。その後、日本の実業団からのオファーを受けた堀江さんは、東芝からダイエーへ。ダイエーを3年ぶり二度目のVリーグ優勝へと導いた。現在、日本オリンピック組織委員会で理事を務めている。

バレーボールの指導者として赴任したころのお話がまた興味深い

梅沢先生が「中村」に赴任した頃の「中村」のバレーボール部。普通はレギュラー選手中心で、実戦に対応できる練習の時間を多くとるメニューとなるが、「中村」ではそうではなく、レギュラーも高校で初めて始めた選手も、同じ練習メニューだった。驚いた梅沢先生が、「全国で勝つことを目指すのなら、もっとレギュラー中心の練習をすべき」と進言する。ところが指導に当たっていたOGの言い分は、「中村に入ってきたら、どんな子も一流にする!」というものだった。その後もレギュラーが中心になって実戦練習をしている時は、コートの外でOGが熱心に初心者にも指導を続けた。そして、実際に高校から始めたという子が、大会でセンターコートに立つことになる。

このバレーボール部の指導方針は、「中村」の教育そのものではないだろうか。一人一人の持つ力を、見事に引き出し、能力だけではなく、「心を育てる」教育。強い志を持ち、自分自身の可能性を信じて努力することができる「人」を育てる―それが「中村」の教育なのだ。前校長 梅沢先生から、薫りたつ校風の源泉を見せていただいた思いがする。

ちょうど成人式を目前にした時期の取材だった、後日お聞きした様子はこのような感じだ

毎年、成人式の後、多くの卒業生が「中村」を訪れる。「ふるさと・中村」に帰ってくるのだ。先生たちは、その姿を心待ちにしている。

(今年も「ただいま」とやってきた卒業生たち。見違えるように華やかで美しい姿を見せてくれた(学校ブログ参照))

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