一番力がある人が監督として率先垂範でチームを引っ張っていく。

THE VOICE

2016/08/31

堺ブレイザーズ 田中幹保さん インタビュー その3

トッププレイヤー、指導者として道を究めた堺ブレイザーズ取締役相談役 管理部長の田中幹保さんに、バレーボールで生きていくとはどういうことか、じっくり話を聞いた。3回目は指導者への道。

29歳の時、恩師中村祐造さんから次期監督に指名される。

プレイングマネージャー時代の田中さん。

29歳の時、恩師中村祐造さんから次期監督に指名される。

「指導者の道は、全く考えなかったんですよ。中村さんから“次の監督はお前や”と言われたんですが、そのころの私は自分の技術がうまくなることしか考えていなかった。

職人肌の選手でしたから、自分がうまくなるためならどんなことでも惜しみなくするが、人がさぼっていようが何をしていようが、全く気にならないプレイヤーだったんです。

団体スポーツでありながら、非常に個人的な選手だった。

だから、そんな選手が監督なんてできるわけないやん、と思いました。

当時、新日鐵堺には小田勝美さんという先輩がいて、リーダーシップがあったから“小田さんが監督やってくれたら私がコーチやりますから”と言ったのですが、中村さんは頑として聞かなかった。無理やり監督にさせられたんですね」

 

「中村祐造さんは、どうして田中さんを後任監督にしたのでしょう」と聞くと、田中幹保さんは、少し考えて、こう言った。

 

「それは力でしょう。私が一番実力があったから。一番力がある人が監督として率先垂範でチームを引っ張っていく。それが新日鐵の伝統的な強化スタイルでした。

私の前は柳本さん、後は真鍋がプレイングマネージャーでした。

そういうチームですから。チームを立て直すためにもおまえがやるしかない、ということでした」

 

指導者としても実績を築いていく

プレイングマネージャーになって、田中幹保さんの生活は一変した。

 

「そりゃ、選手時代とは変わらざるを得ない。1年目は、正直何もわからなかった

まわりの目が気になって仕方がなかった 会社やチームメイトがどう思っているか、すごく気になった。でも、プレイングマネージャーは7年やりました」

 

田中幹保監督率いる新日鐵堺(のち新日鐵)は、1989年から日本リーグ3連覇、この間、最優秀監督賞を3年連続で受賞する。

1991年には、現役を引退。

 

「1990年に、中垣内祐一が入団したタイミングで、引退を決意しました。36歳でした。

まだプレイヤーとしてやっていけたでしょうが、自分で納得できるプレーができなくなったんです。

私には、自分の基準があったんですね。自分の技術が確立出来たあるタイミングから、常に自分の良いイメージをもってプレーをしてきたんです。でも、選手生活の晩年は、自分はいいイメージでプレーしているにもかかわらず、少しずつずれてきたんですね。これってもうだめやな、と思って引退を決意しました」

田中幹保さんは、1年間、新日鐵の総監督を務めた後に、JOCから派遣されてアメリカ、イタリアにコーチ留学をする。

 

「日本のバレーしか知らないから、海外を見たかったんです。私たちがやってきた練習が、それでいいのかを確かめたかったんです。特にアメリカはオリンピックのたびに強くなっていく。何が違うのかを見たかった。練習は合理的で、実践的でした。基本的なところが違ったのです」

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